ま。いつものように、お仕事、でございます。
連休、に、休める方が珍しい今日この頃。
だからって、「どお?」って事もない、ですが(笑)
で、4月28日は、休暇(代休の先取り)でした。
突然取らされたので(-_-;)何にも予定が立ちません...。
そう言うときの、習いとして、録画済みの番組(ドキュメンタリー+ドラマ)を、再見しました。
戦場のメロディー
〜108人の日本兵士の命を救った奇跡の歌〜
出演:薬師丸ひろ子、成宮寛貴、萩原聖人、中嶋朋子、田畑智子 他
フジテレビ(土曜プレミアム)
2009年9月12日
私の好きな歌手、「渡辺はま子」がらみで、録画してあったものです。
既に、昨年放送直後に見てます。
再見、の、訳は、「小日向文世」が出演してる(お約束)、って、ことです。
この話の「主役」のひとりとも言える役柄で、強烈な印象を受けたのですが、例によって、俳優「小日向文世」の認識はありませんでした...。
明日は4月29日「昭和の日」。(←書き始めたのは4月28日だった...)
昭和、といえば避けては通れない、第二次世界大戦(太平洋戦争)について、の話、と言うこともありこれを見直すことにしました。
以下、ネタバレ注意、では、あります、が、史実ですから、気にせず、どーぞ...。
ってか、知らなければいけないこと、の、ひとつだと思います。
日本の「教育」からは、まるっと、抜け落ちている、大事なこと、です...。
例によって、一視聴者の雑感、感想、戯れ言ですので、番組がこの通りとは保証いたしません。
が、大筋は合ってる、ハズ、です、よ...。
終戦から7年。
サンフランシスコ講和条約が発効し、A級戦犯の恩赦も行われていた。
復興に沸き、「戦争」も段々遠くなりかけていた。
遠く、フィリピンのモンテンルパの刑務所で、「BC級戦犯」の元日本軍の兵士14人の死刑が執行された。
正式な戦争犯罪人として軍事法廷で裁かれた、のではあったが、証拠調べもロクにされず、反論も許されない、証人の「指さし」だけで、実際にはそこにいなかった人でも、死刑判決をうけるなど、冤罪も多かったという。
が、当時フィリピンとは国交がなく、巨額の戦争賠償金の支払いも出来ない日本政府には、刑の執行を止める術は、ほとんどなかった。
加えて、戦争は忘れてしまいたい過去として、省みられることも少なくなっていた。
人気歌手・渡辺はま子(薬師丸ひろ子)はその状況に心を痛めていた。
戦時中、慰問という形ではあったが、戦争に協力し、兵士達を鼓舞し戦場に送り出したことを忘れるわけにはいかなかったのだ。
元兵士の家族を慰めようと、家族を地方公演に、招待し、遺族の元を訪ねて歩いた。
復員局の若き役人、植木信吉(成宮寛貴)を通じて、
はま子は、モンテンルパの刑務所の教誨師・加賀尾秀忍(小日向文世)と文通を始める。
反日感情は激しく、当時の大統領は、妻子を日本軍に殺され、憎しみは大きかった。
いつ、次の死刑が執行されてもおかしくないほど逼迫した絶望的な状況だと知る。
刑務所への慰問の品や、家族からの手紙さえ、予算が削られ送ることができない状態に、フィリピン担当の植木は悶々としていた。
囚人達を独自に調べ奔走し、「命のリスト」を作る。
が、若いのだからそんな事に関わらず、栄転の話を受けるようにと言われる始末。
遡ること3年前。
真言宗の侶僧、加賀尾は、半年の期限で、教誨師としてモンテンルパの刑務所にやってきた。
劣悪な環境と食事。
祖国から見放され、絶望し、荒んだ眼差しの囚人達。
教誨師が来たんなら、死刑は近い、と言うものまで...。
加賀尾は、任期が終わっても、日本には帰らず、最後まで彼らに寄り添っていきたいと、自らの意志でモンテンルパの刑務所の中で囚人達と寝食を共にするようになる。
少しづつ、打ち解け、彼らの心の支えとなっていく...。
が、ある夜突然、死刑の執行が始まる。
恐怖と絶望に泣き叫ぶ、死刑囚。
「何も聞いていない!」
加賀尾は強く抗議するが、中止させることなどできない。
せめて支えになりたいと、ただひとりの日本人として、最期に立ち会い、家族への遺言の言葉を聞く...。
亡くなってもなお、故国には帰れず、絞首台の傍らに無造作に葬られる囚人達...。
心臓に持病があり、劣悪な環境に、心労が重なり、死刑執行の立ち会い後倒れてしまう。
心配し、先生は日本に帰ってください、と言う囚人に対し、帰るのはここの囚人がすべて日本に帰ったときだ、と。
誰彼となく、「ふるさと」を歌う...それに聞き入る、加賀尾...。
回復した加賀尾は、囚人達に、日本の人々に、ここのことを知ってもらうためには、囚人自らの言葉と音楽が必要だと、このモンテンルパのことを歌にして欲しいと依頼する。
訝る彼らに、音楽には力がある、倒れた時自分はみんなの歌にに元気づけられた、と。
作詞は、代田銀太郎(阿南健治)。彼は紙がなくてもちり紙に詩を書いていた。
作曲は、伊東正康(金井勇太)。音楽が好きで、オルガンを弾きみんなを慰めていた。
二人とも作詞、作曲は初めてであった。
苦労して書き上げた「ああモンテンルパの夜は更けて」(ドラマ中ではいきなりこの題名だが、実際は「モンテンルパの歌」だったそうです)は、加賀尾を通じて、渡辺はま子の元に届く。
反対を押し切り、レコーディングされた「ああモンテンルパの夜は更けて」は大ヒットとなる。
モンテンルパ刑務所の囚人達への同情と、解放への世論も盛り上がるのだが、一方、売名行為という言われなき中傷もあった。
そして、モンテンルパの刑務所へ、慰問に行き少しでも彼らの助けになりたいと願うようになる。
国交もなく、反日感情も激しいフィリピンに渡ることは難しく危険なことだった。
ギリギリになってやっとビザが下り、はま子はフィリピンに旅立つ。
モンテンルパの刑務所で、少しでも慰めになればと、和服やドレスなど、何回も衣装を変え、往年のヒット曲や唱歌を歌うはま子。
そして、「ああモンテンルパの夜は更けて」...囚人達、加賀尾ら、そこにいた全員が歌った。
その様子は、はま子が持ち込んだテープレコーダーで録音され、日本で放送された。
モンテンルパの囚人達を救おうという機運が高まった。
慰問から半年後。
加賀尾は、キリノ・フィリピン大統領に、会う機会を得る。
涙ながらに命乞いをし、釈放を求める、と考えていたと言う大統領は、しかし、許す気など全くなかったという。
自身も妻子を殺され、激しい反日国民感情もあった。
加賀尾は、会ってくれたお礼を述べ、アルバム型のオルゴールを贈る。
鎌倉彫りで富士山や桜をあしらった美しいもので、はま子が作らせ加賀尾に贈ったものだった。
開くと「ああモンテンルパの夜は更けて」が流れた。
耳を傾けた大統領は、この哀愁を帯びた曲は何なのかを、加賀尾に聞いた。
モンテンルパの囚人達が作った曲で、作詞も囚人がし、その内容を語ったと言う。
日本は憎いが、戦争がなければ彼らも、父であり、息子であり、このように美しい曲を作る、人間であると感銘を受けたそうです。
会談の後、予想に反し、戦争に負け、圧倒的に不利ななかで、このように堂々とした外交をする日本に、感心したという。
(実際には、「日本の外交」と言っても個人の尽力が、あまりにも、大きいです、が...)
ひとつの曲が、憎しみを、憎しみで返すのではなく、寛容の気持ちが生まれるのに大きな力となった瞬間でした。
そしてその年の感謝祭の日、大統領による特赦で、全員が釈放され、日本へ帰国する。
死刑執行された14人と共に...。
再会に沸く港で、悲しい再会を果たす、妻、そして一度も会うことのなかった息子。
戦死したと誤報を受け、再婚し新しい生活を始めていた妻...。
無事帰国を喜びながらも、どうしようもない現実。
終戦から、8年。やっと彼らに本当の終戦が訪れた...。
ドラマ部分を中心に書きました。
実際には、記録映画や、最近のインタビューなど、ドキュメントと交差した構成でした。
ドキュメント部分に、コメントは、できません。
事実は重すぎて、初めてこの番組をみてから、半年以上になりますが、
未だに、整理がつかない、不条理で、息苦しい気持ちになります。
日本軍、日本人が、フィリピンの人々に対して行った、数々の残虐行為は、残念ながら否定する事はできません。
一方で、徴兵により望まぬ戦いにかり出された、普通の人々にすべての責任を負わせるのも、無理な話です。
戦争が悪い、と言うこと以外、答えはありません。
ただ、ひとつだけ...教誨師だった加賀尾秀忍の33回忌に集まった、植木信吉、元死刑囚、遺族が墓前で「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌う姿に、落涙止まらず...。
再放送を、ぜひしていただきたい、番組です。
長々と書いているうち5月になっちゃいました...。
明日は憲法記念日...。
「我が窮状」はどうなるんでしょう、か...。
妙なこと、は、無し、で、お願いしますよ...。
(文中、敬称は略させていただきました)
長くなりすぎましたので、渡辺はま子さんと、「ああモンテンルパの夜は更けて」について、私が持っていた「疑問」は、次の機会にいたします。
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